
寒中見舞いの食の会を囲みました。
食し語り、歌い、踊りちぎる。と原始的な営みに戻って心丸裸に。生き生きとしたみなさんを見ました。
ヒトが楽しそうにしているのをみると、なぜもこんなに幸せなのでしょう。
そして身近なヒトが悲しんでいると、なんとか力になりたいと震え思えます。
鬱のことが、ひんぱんに話題になる昨今。
ヒト同士が助けあって、生きる喜びになれたらどんなにいいでしょう。
東京のヒトは冷たいよと、以前、古い友人がもらしたことがありました。
駅で転んだヒトを誰も助けないのよと言う。
そうか。ならばわたしは、親知らずの歯が痛み、駅で気を失い倒れたのを、しらない方が駅員さんに知らせてくれて医務室へ運んでいただけましたことを神に出会ったと思わないと。
友人から言わせれば都会ではそれは奇跡のようなことなのです。
なんということか。手をさしのべるとは、痛みをしる者だけが知る行為なのです。
だから鬱になるというのも、そこから立ち上がれたとき、誰よりもヒトの心の痛みがわかるヒトになれるとおもいます。
それは弱さを知る者だけが持てる強さとして。
傷ついた者が優しくなれる、強くなれる、勇気を持てるのだとも言えるとおもうのです。
弱さに誇りを持て。
ただ強いのではない。それは共感をたずさえた慈しみの尊さです。
あのとき苦しくてお礼も満足に言えなかった、それなのに確かに手を握っていてくれた駅で助けてくれた方。それはわたしがこれから他の方へとすることを渡されたと思っています。
そのことは、
冷たくされたときも、やさしくされたときも、
悪意はヒトに返さず、善意は広げていくように教えたのです。
冷たくされた。それが心を塞ぐときも、冷たいヒトに恨みますでしょう。泣きますでしょう。
でもどうしたことか冷たいヒトには自覚はありません。そこを責めたくなるとき、ものすごいストレスがかかります。ヒトに失望するときに、期待しないこと、わかってもらう説得も要らないので、
その前に自分が壊れてしまうのを自分が救うというのも、慈しみの心だといえます。
心に鬼を飼うひとに自分の魂を渡さないよう。すがらないよう。未練を持たないようお別れしたいものです。